2011年9月27日
はじめまして、社会政策・広報委員長の磯村です。この8月24日に専従役員として生保労連にお世話になることになりました。
広報委員長としては、多くの消費者団体やマスコミ関係の方々へ、そして、社会政策委員長としては、ユニオンアドバイザーをはじめとした有識者の方々に、25万人の組合員の皆さんの活動への理解を求めていく大事な役目。少々、緊張していますが、頑張っていきたいと思います!
話は変わりますが、磯村は「海」が大好きです。いつも葉山か伊豆ばかりですが。仕事が一段落した時、アイデアがわかない時、などなど・・・個人的には海を眺めていると不思議と力が湧いてきます。
3連休も、小2の娘と年中の息子と残暑の太陽が照りつける中、葉山へ行ってきました。ワーク・ライフ・バランスというやつですね。しっかり働き、しっかり休む。もっとも、家族サービスは休むというより体力勝負かも(汗)。とにかく、、、第三京浜~横横~逗葉新道ルートで行けば、都心から車で1時間半くらいで、陽光がきらめく青い海が目の前に広がります。葉山は、御用邸もあるなど昔から避暑地ですよね。海あり、山あり、食事もおいしい!そして、相模湾の向こうには江の島、そして富士山が見えるパワースポットというか、「癒し空間」です。ちなみに、今回も見えました!(小さくてわからないかも・・・)湘南ほど人もいないし、ゆったりできます。
海にはいろんな表情があります。いろんな色があります。そして匂いがあります。夏は終わりますが、秋や冬の海もまたいい感じです。皆さんも、海を眺めに行ってみませんか?

2011年9月05日
こんにちは、生保労連委員長の佐藤です。
東日本大震災から6ヶ月が経ちました。あらためて、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
また、被災地の一日も早い、生活そして産業の復興を衷心よりお祈り申し上げます。
この間、何よりも、生保産業人として感動し、嬉しく誇りに思うことは、被災直後から困難な状況の中、お客さまの安否確認、お支払い等のご案内にいち早く、そして親身な活動を展開されて来た営業職員・機関長、現地組合員の皆さんの活躍です。
私自身、様々な方面の方々から、賛辞とお礼、労いの言葉を頂きました。そのことを、まだまだご苦労が続く被災地組合員の皆さんに、まずは、声を大きくしてお伝えしなければなりません。
前回までは、「連合復興ボランティア」への参加報告を連載してきました。
活動に参加した役職員全員、押し流された市街地に呆然と立ち、被災地の方々と接し、また、瓦礫・ヘドロとの格闘にヘトヘトになりながらも、復旧へ向けた活動に「自分が参画し、少しでも貢献が出来た」という生涯忘れ難い事実に対して、大きな充実感と強い連帯感と被災地との絆を労連組織に持ち帰りました。
あれから半年が経ちました。
震災前のことが随分と遠い昔のことのように感じられます。それ程に、震災以降、「日本では濃密な時間が流れている」ということなのだと思います。
元気は、与えるものでももらうものでもありません。“自ら出すもの”です。
それまでは、元気な者がしっかりと支え続けること、それが我々の使命です。
大震災からの復興へ向けた支援活動はまだまだ続きます。
これからも、被災地の再生を、「心で繋がった絆」を通して応援し、見守っていきたいと思います。
さて、生保労連は8月24日に定期大会を開催し、2011年度の運動方針等を確認いただきました。
設立40周年を機に共有した「Newチャレンジ宣言」。「社会から共感・信頼をいただける運動の実現」を目指して、活動を進めていきます。
「頑張ろう、絆の国にっぽん!」
2011年7月05日
こんにちは、組織・社会政策担当の近藤です。
6月11~19日にかけて連合救援ボランティア第10陣が派遣され、生保労連からは広報・社会政策を担当する長﨑委員長と私が参加しました。
前半は多賀城市で側溝の掃除を行い、後半は名取市と石巻市でガレキ撤去などの作業を行いました。
名取市では、カーネーション栽培を行うビニールハウス内にたまったヘドロやガレキを除去する作業を行いました。栽培していたカーネーションはすべて津波でなぎ倒され、岩のように硬い泥が畑全体を覆い、農業の経験がない私から見ても、元の状態に戻すには長い年月が必要であることが分かりました。
津波の被害を逃れて残った花を刈り、畑の骨組みを壊していく作業は本当に胸が痛み、作業に関わった全員が悲しい気持ちになったと思いますが、依頼主の方が復旧・復興に強い意欲を持たれており、私たちの心をいつも奮い立たせてくれました。
作業をしている時に、他のボランティアの方が、「これはゼロではなくマイナスからのスタートだから頑張らないといけないんだ。」と話していましたが、まさしくその通りで、何も無い場所に畑を作るよりもはるかに大変な作業だからこそ、私たちボランティアが必要とされているのだ、ということを痛感しました。
ボランティア期間中は、大部屋で寝泊まりし、他の産別の方々と朝から晩まで行動を共にするという、貴重で得難い経験をさせていただきました。
これからも被災地で感じたことを忘れず、日々の仕事の中で復旧・復興に繋がることを続けていきたいと思います。
↑名取市のボランティアセンターには手づくりの可愛い看板がたくさんありました。
2011年6月24日
みなさん、はじめまして。労働局(営業職員委員会担当)の小島です。
この“ブログ”を楽しみに?ご覧いただいている方々は既にご承知かと思いますが、現在、生保労連では、被災地の復旧・復興に「少しでもお役に立ちたい」との思いから、連合を通じたボランティア活動に参加しています。わたしも6月3日~11日までの9日間、大隈副委員長(前半)、早川副書記長(後半)と共に宮城(仙台)に行ってきました。連合としての派遣は、第9陣目になります。(わたし自身は、ボランティア初体験です)
「班長」として・・・
活動地区は、これまでもブログで紹介のあった亘理町です。活動初日・2日目は側溝のヘドロ等を除去する作業です。

第9陣「第1班」の仲間たち
当日は土日ということもあり、個人の方を含め、多くのボランティアの方々が各地で活動していました。側溝には、津波で流された様々なものが混在しており、それらも含めて取り除く作業は、想像していたよりも重労働でした。
活動中は、基本的に班単位で作業にあたります。なぜかわたしが「班長」に任命されましたので、右も左もわからない中で、少しでも頼りになる班長をめざして奮闘しました・・・
9陣目にして初めての墓地清掃
3日目以降は、墓地に流れ着いた泥や砂利、ガレキ等の清掃作業です。多くの墓石が破損、倒壊している状況の中で、「せめてその周辺だけでも元の状態に戻そう」との思いで、計4日間の活動を行いました。
活動中、残念ながら破損してしまった墓石に手を合わせているご家族を何度か見かける機会がありました・・・。「ご先祖さまにご自身の無事を知らせている姿」なのか、それとも「被災し、他界されたご家族をお守りくださるようお願いしている姿」なのか・・・。
こうした姿を見ていると、何とも言いようのない気持ちになりましたが、一方で、こうしてお墓参りに来ることができる状況になっているということは、約3か月という時が経過する中で、生活の面でも心の面でも、少し落ち着いてきているのかもしれないとも感じた次第です。

墓地での清掃作業
仙台のみなさんのたくましさを痛感
ボランティア期間中は、毎朝8時30分頃にベースキャンプ近くの北仙台駅をバスで出発し、活動地域のボランティアセンターに向かいます。この時間帯は、通学途中の学生達や通勤途中のサラリーマンの方々、特に仙台は自転車通勤をされている方が多いのですが、みなさん颯爽と元気に活動してらっしゃいます。
また、夜の仙台はというと、これもまた明るく元気に語らい合っている姿が多く見られます。それが奥さん・旦那さんへの不満?なのか、上司の愚痴??なのかは分かりませんが・・・
たとえご自身やご家族が無事であっても、親戚や友人・知人といった方々の状況を含めると、ほぼ全ての方が深い痛みや悲しみを抱えていることは容易に想像できますが、そうした状況にあっても、明るく、力強く歩まれている姿が強く印象に残っています。
オール・ジャパンで復興を
9日間という短い期間ではありましたが、被災地の惨状を目の当たりにし、その復旧・復興に向けた活動に携わることができたことは、とても貴重な体験でした。
今回の活動では、個人宅のお手伝いをする機会はありませんでしたが、ボランティアセンターのみなさんや連合宮城の方等とお話する機会をたくさん得ることが出来ました。その中でみなさんがおっしゃられていたのが、「何とか5年間で再生する」という強い思いでした。
私自身、一人の“日本人”として、生保労連・連合を通じた諸活動への参画や、個人的に出来る事をしっかりと行い、5年後に“観光”で仙台を訪れたいと強く願っています。
<亘理町災害ボランティアセンター>
http://msv3151.c-bosai.jp/group.php?gid=10115P
2011年6月21日
皆さん、こんにちは。労働局の内勤職員委員会担当の本間です。
私は、5月26日~6月2日まで連合のボランテイア救援派遣として、宮城県内で活動してきました。生保労連としては、今回で4回目の派遣となり、前半3日間は多賀城市で、後半3日間は亘理町で活動してきました。
前半3日間の活動拠点、多賀城市は、宮城県の東部に位置し、724年(奈良時代)に陸奥国国府として栄えた、人口約63,000人の都市です。(「多賀城」は城址公園として整備されています。)
仙台市からもJR仙石線で約20分と近郊に位置している他、仙台港も近い風光明媚な地域です。今回の震災では、187人の方の尊い命が奪われ、約4000件の家屋が損壊しました。私が今回作業を行ったのは、仙台港のすぐ近くに位置し、被害が特に大きかった、宮内地区という地域です。
作業内容としては、家屋の前や脇に敷かれている側溝内の清掃作業でした。側溝内には津波が運んできた土砂をはじめ、近隣の家屋から流れてきた食器類や食材等、様々な物がつまっていました。こうした側溝内に入っている物をスコップですくいあげ、土嚢袋に入れていく作業を行いました。
周囲の状況として、家屋は激しく損壊しており、住民が全く生活することができない状態でした。そのため、地域内の住民は現在避難所に移っており、時折、必要な荷物等を取りに自宅に戻って来られる方の姿を目にしました。
また、作業を進めていた際に1匹の飼い猫を目にしたのですが、元の家に飼い主の姿はなく、自分の飼い主を捜し回っているようでした。そのため、人恋しかったのか私たちが作業をしている姿をじっと見守っていました。猫の姿を見て、とても切ない気持ちになったのですが、「地域の復興と再生に向けて、少しでも役に立っていきたい」との気持ちを強く持ち、作業を精一杯進めていきました。
多賀城市での作業の最終日には、市の社会福祉協議会の会長から涙ながらに感謝のお言葉をいただき、大変嬉しく感じるとともに、「地域再生に向けて、今後も可能な限りの協力を行っていきたい」と強く思いました。
後半3日間は、宮城県南部に位置する亘理町で作業を行いました。亘理町は、仙台市街からJR常磐線で約30分と近郊に位置しており、比較的温暖な気候を活用してイチゴの栽培が盛んに行われている地域です。
多賀城市と同様、津波の被害も大きかった地域の一つであり、今回の震災では、255人の方の尊い命が奪われてしまいました。しかし、今回の震災では、町内を走る高速道路が防波堤の役割を果たし、津波による被害の拡大を防ぎました。この高速道路は、「仙台東部道路」という、仙台市街と福島県相馬市等、太平洋沿岸地域を結ぶバイパス道路です。海から約3キロ程離れた地点に建設されており、この道路の海側とその反対側とでは被害状況は全く異なっていました。
私が今回作業を行った地点は、海側に位置する吉田地区、長瀞地区という地域です。
両地域とも、数多くのイチゴ農家が軒を連ねており、時折、カッコウの鳴き声も聞こえるのどかな地域でした。今回の震災で、農家のビニールハウスが損壊したり、土砂が田や畑に流れ込んだりと大きな被害を受けていたのですが、地域住民は自宅に戻りながら地域社会や日常生活の再生に向けて、懸命にご努力されていました。
後半3日間も、側溝内の清掃作業に従事しましたが、多賀城市での作業と異なり、ビニールハウスのパイプや袋に入った肥料等、引上げに苦労する物が大量に側溝内に入っていたため、大量の汗をかきながら大型スコップを活用し作業を進めました。時折、地域住民の方から冷たい飲み物を差し入れていただくなど、住民の方と触れ合いながら作業を行うことができました。また、6月1日の作業終了時には、暖かいうどんを差し入れていただき、身も心も暖まりました。(驚いたのは、うどんの中にツナが入っていたことです。ツナの油がつゆの味を引き立てていて、とても美味しくいただきました。)
多賀城市、亘理町両地域とも、海から2~3キロ圏内に位置していることから津波の被害は甚大で、震災から3か月以上経過した現在でも倒壊家屋やガレキ等は片付けきれていません。報道では知ることのできなかった震災の惨状や、地域の復興と再生に向けて懸命に努力されている地域住民の方々の様子を体感することができ、本当に貴重な経験になりました。今回の経験を活かし、「被災地域の復興に向けて貢献していけるよう、懸命に努力していきたい」と強く感じています。共に頑張りましょう!

同じグループのメンバーと(撮影場所:多賀城市宮内地区)