生保労連(全国生命保険労働組合連合会)は生命保険会社の営業部門・事務部門に働く労働者25万人(19組合)を組織する労働組合です。

生保労連のつなげる、つながるブログ

頑張れ東北!生保の仲間たちに想いを寄せて

 あの大震災から1年が経とうとしている。

 1月の連休を使い、磯村副委員長と共に、ユニオンネットに寄稿してくれた被災地組合員の現在の生活環境、連合ボランティアで訪れた被災地復興の現状を確かめるべく、被災地を訪れた。

 2012年1月9日朝、10ヶ月が経つ石巻市女川(おながわ)の町に立った。どの入り江の海も、川も、何も無かったように穏やかである。もっと早く来るべきだったとの思いがある。死者15,845人、行方不明者3,339人、避難生活者341,411人、生保組合員も20名近くの方々が亡くなった。(2012年2月1日現在。)

 2011年3月11日14時46分、多くの人々は仕事中であった。

 あの日、事務所・活動地域・自宅との動線を、震災が寸断し、津波が押し流した。

 あの時の仲間たちの日常を改めて想わざるを得ない。怖かったと思う、寒かったと思う。

 

 漁港、現在はそこから仕事と生活の匂いと音が消えている。遮る物は殆ど無く遠くまで見通せる。湾の反対側工業港ではいくつかの工場が既に煙を上げて操業している。パルプが流れ出しヘドロと成っていたのはこの辺りだろうか。聞けばついこの間まで、ここを大量の瓦礫が覆い、衣類が散乱し、生活の跡が痛々しく覆い尽くしていたという。それも今は瓦礫と砂混じりの更地になっている。

  

『がんばろう石巻』のたて看板。 

その脇には献花、額に入った尋ね人の写真、千羽鶴。時間の止まった静けさが辺りを支配していた。

 何故、自然はここまで酷いことをするのだろう。

 被災直後から1年という時間の経過に伴い、匂い・景観が少しずつ復興へ向けて変わってきたという。それは自然にそうなったのではなく、多くの人々が力を合わせ着実に進めて来ているからである。大きな大きな「力」を感じる。確かに、目視できる真新しい建物、真新しい踏み切り、真新しい信号機が見られる。

 しかし残念ながら、今はまだ、そこに生活の喧騒はなく、生活の匂いがない無機質な更地が広がっている。この静寂と遮るもの無く一面にひろがる視界は、やはりここへ立ってみなければ分からないだろう。この静寂が、近いうちに、本当に近い内に、また生活の活気にかき消され、視界が生活の砦に遮られる日を期待したい。何よりも「生活」の回復を急がなければならない。われわれは仕事をして生きていかなければならない。

 われわれは、今回の大震災を、生活や仕事、家族や地域の在り方の教訓とし、静かに受け止めるしかないのかもしれない。そしてそれを伝え、決して忘れないことだ。

 「東日本大震災」という未曽有の大災害が発生し、2011年は、まさに歴史に刻まれる一年となった。残念ながら、本格復興には、まだ多くの時間が掛かるものと思われる。余りにも大きな犠牲を伴った今回の大震災、生命保険の重要性のみならず、それをお届けする仕事の役割の重さを改めて認識する機会となった。あの未曽有の事態の中、営業職員・社員のみなさんが、懸命にお客様の安否確認や保険金の支払いに奔走し、他のチャネルでは決して為し得ない役割を発揮されたことに、内外から大きな評価を頂いているところである。

 同じ産業人として、大変に誇りに思うとともに、日頃から地域と密着した活動があったからこそ、困難な状況の中でも、地域への貢献を果すことができたのだと思う。今後ともこの貴重な教訓を活かし、生保産業の社会的使命達成のためにも、日常的な活動の中で、お客様とのコミュニケーションをシッカリと継続し続けることが大事だと痛感する。

 こうした中、被災地組合員のみなさんは大震災を乗り越えて再び歩み始めておられる。現地ではまだ、忍耐と努力が続く。私たち生保労連も、「絆・つながり」を大切に、被災地組合員の皆さんに寄り添いながら、新たな気持ちで生保産業の社会的使命の達成を目指して行きたい。 

 立ち上がれ東北。がんばろう日本。

 改めて、亡くなった多くの方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

ご家族や友人を失くされた方々、未だに避難生活を余儀なくされておられる方々に、心よりお見舞いを申し上げ、そしてこれからも、心から応援します。  

※訪問地は宮城県女川町、石巻市から亘理町にかけて、磯村生保労連広報委員長と共に。

          明治安田生命労働組合東北地区副委員長佐藤伸氏の運転、同行に感謝します。

           中央執行委員長 佐藤 正幸

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