生保労連は「平和」についてどう考えていたか
2015年4月22日
書記局顧問の佐藤です。この5月末で定年後嘱託期間を終えますので、ブログ登場は最後となります。
今回は、生保労連の「語り部」として、生保労連が「平和」について、どのように考えてきたか(あるいは考えていたか)、約30年前に遡って振り返ってみたいと思います。
私の手元に、生保労連の1984年度の「運動方針」があります。その頃の「われわれを巡る情勢」は、「国際情勢」「国内情勢」「業界情勢」の三部構成で、前二者は「政治」と「経済」に分かれていました。そこでは、「平和」についてどのように書かれていたでしょうか。
(1)国際情勢から見て
1984年頃は、米ソの二極から中国を加えた三極構造の時代に移行しつつ、核開発など軍備拡大競争が進んでいました。経済では、第2次オイルショックの低迷を脱しつつありましたが、先進各国で失業、財政赤字、貿易摩擦が重要な課題として浮上してきた頃でした。
このような政治や経済の情勢を整理して、「運動方針」では、次のように課題をまとめています。
こうした「対決」と「協調」の時代の中で、わが国は唯一の被爆国として、かつ貿易立国として
国際社会のなかでいかなる役割を担い、世界平和に貢献していくかを問われている。
(2)国内情勢から見て
83年末に中曽根内閣が成立し、それまでの保守本流政治から「戦後政治の見直し」が打ち出され、防衛、改憲、教育問題、そして原子力政策などについて、大きく舵を切ろうとしていました。経済では、高度成長が終焉して、「内需低迷」「貿易摩擦」「財政再建」が三重苦として取り上げられ、それらは今日まで続く課題となってきました。
このように戦後政治と日本経済にとっての大きな転換の時期でしたが、「運動方針」の情勢では、情勢認識として、「平和と生保産業の関係」を次のように結んでいます。
平和によって成り立つ生保産業に働くわれわれも、政治に対しては強い関心を持つ必要がある。
(3)これからも「平和によって成り立つ生保産業」は変わらない
この30年の間に国内・国際情勢とも大きく変化してきましたが、「戦後からの脱却」をめざす潮流は勢いを増しているようにも見えます。
今回は、こうした時代の中で、「語り部」としての思いから、先達たちが「平和」についてどう考えてきたか、生保産業の労働組合として記憶に留めておいてほしい「歴史」を紐解いてみました。
今年は戦後70年です。生保産業は戦争で壊滅的な打撃を被りましたが、多くの会社が「第二会社」として再スタートし、今日まで「安心を提供する生活保障産業」として発展してきました。そして、これからもその礎に「平和」があることを忘れずに、契約者の皆様、そして組合員の安心と生活を守るために労働組合活動をしっかりと進めていくこと期待しています。
今年の上野の花見は、アジアや欧米の観光客の方が多かったとか。
日の本の平和なればの花見かな (「不忍池・桜二景」2015.3.31 筆者撮)※クリックして拡大
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