2024年12月03日
組織委員会を担当している堀です。この委員会の運動方針の中には、「災害やパンデミックの際には、組合員の安全・安心を確保する観点から、連合等と連携を取りながら、迅速的かつ機動的な取組を行う」とあり、 私からは参加した「連合・能登半島北部豪雨災害ボランティア活動」についてお伝えいたします。
9月下旬に発生した線状降水帯の影響により、能登半島地域では、多くの河川の氾濫や、地震により不安定になっていた土砂が崩れるなど、甚大な被害が発生しました。
連合では復旧に向け、10月13日から11月1日にかけて連合救援ボランティア活動を行いました。計3クール(※1クール約一週間)延べ参加者は526名でした。
主な活動は、10名ほどのグループを作り、床下、家屋の周りや側溝の土砂を取り除き、その泥を土のう袋に詰め集積場に運ぶもので、輪島塗の工房では高額なお椀が破壊され、家族のアルバムが泥にまみれていました。
活動はなかなかハードなものでしたが、「きのどくな」(「ありがとう」の意)という住人の方の、温かい言葉にこちらが元気を貰いました。
また、年齢も職種も違う初めて会った組合員で心を一つに力を合わせ、このボランティア活動に取り組んだこと、そのことが組合活動につながる大切な気づきを与えてくれました。
2011年10月18日
こんにちは。政策局の新井です。
今回は連合派遣ボランティア第23陣として、岩手県陸前高田市の広野地区で活動してきました。
生保労連としては、この第23陣が最後の連合ボランティア派遣となりました。(連合は9月末で収束)
震災前の陸前高田市は1万本の松原がある風光明媚な街でしたが、震災による津波のため、たった1本を残して全て押し流されてしまいました。また、震災からちょうど半年経過しましたが、街も瓦礫の山がいまだ数多く残っており、急ピッチで搬出が行われていました。
今回の活動は、気温30℃、湿度90%にも達する厳しい残暑の中での作業となりました。
活動前半は主に民家跡の草刈り・瓦礫の撤去でした。背の高さを超えるような草・木、大人1人では持ちあげられないほどの重さの流木、石、瓦、コンクリートなどの瓦礫が多くあり、初日から悪戦苦闘しました。
トラックへの瓦礫積み込み作業
活動後半は、公民館跡地で瓦礫の撤去でした。私たちの活動終了日翌日に祭りを開催するため、子どもたちが安心して遊べるようガラスやコンクリート、石などを撤去して欲しいとの要望があり、「子どもたちのために」と疲労が蓄積している中で、メンバーが今まで以上に一丸となって活動を行いました。
私自身は連合のボランティア派遣は2回目となりましたが、この2回を振り返ってみて、少しでも被災地の皆さんのお役に立てていればと思うところです。
被災地は未だ復興半ばですが、1日も早い復興と、震災前よりも発展することを祈念いたします。
全作業終了後に第23陣のメンバーと
2011年9月30日
労働局の堺です。連合派遣ボランティアの第22陣として、9月上旬に岩手県陸前高田市・大船渡市で活動してきました。
活動初日は朝から雨模様でしたので、陸前高田市での活動を回避し、大船渡市で活動を行いました。陸前高田市では地盤が沈んでしまっているので、雨が降ると海面が上昇し、危険な状況になってしまうのだと聞きました。この日は雨がそぼ降る中、海辺に近い幹線道路脇の側溝につまった土砂をスコップとつるはしで取り除く活動を行いました。土砂を掘り返していると、アワビや牡蠣の殻がザクザクと出てきます。養殖場が近かったのでしょう。漁業への被害も甚大だったと思います。
翌日からは天気が回復し、陸前高田市で活動しました。活動場所は海風が吹き抜けるので涼しさを感じますが、連日30度越えの炎天下です。ボランティアセンターの看護師さんから熱中症対策の指導を受け、20分活動10分休憩のターンを繰り返しながら、自分の体力と相談しつつ、活動を行いました。
活動2日目は荒れ果てた田んぼの草刈りとがれきの撤去です。すぐ近くでは、鉄道の線路が盛り土ごと流されてしまっており、津波の威力を物語っています。田んぼの持ち主の方は無事でしょうか。
活動3日目と4日目は、内陸部の高台にある地元企業の資材置き場の撤去を手伝いました。そこは仮設住宅の建設予定地に指定されているとのことです。日頃はパソコンの前にかじりついている自分も屋外の作業にすっかりとなじみ、きびきびと身体が動くようになっています。
活動最終日は、小さな入江にある農家の片付けの手伝いです。作業中にふと上を見上げると、高さ数メートルもある木の枝に衣服が絡みついています。それ以上の高さまで水がきたということです。ぞっとします。
活動場所への行き来はバスでの移動となりましたが、車窓から見る景色には時折見慣れない光景が映ります。そこにあるはずのないものがゴロンと無造作に置かれたような光景、またそこにあるべきものが根こそぎ持っていかれてしまって、不自然なほど何もない光景。そこに何があったのか、誰が生活していたのか、被災前の写真と見比べることでようやく想像を補うことができます。
被災した方の体験談を聴いたり、被災地を歩いたり、廃墟に立ったりしましたが、自分の体験を人に伝えるのは難しいですね。被災した方々の経験や思いをくみ取って、また人に伝えるということができるかと問われれば、私には難しいな、できないな、と思います。せめて、自分が見てきたものを、天災の破壊力の大きさと爪跡を、自分が生活する地域の、職場の防災に生かしていくことが務めと思い、これから役立てていきたいと思います。
2011年7月05日
こんにちは、組織・社会政策担当の近藤です。
6月11~19日にかけて連合救援ボランティア第10陣が派遣され、生保労連からは広報・社会政策を担当する長﨑委員長と私が参加しました。
前半は多賀城市で側溝の掃除を行い、後半は名取市と石巻市でガレキ撤去などの作業を行いました。
名取市では、カーネーション栽培を行うビニールハウス内にたまったヘドロやガレキを除去する作業を行いました。栽培していたカーネーションはすべて津波でなぎ倒され、岩のように硬い泥が畑全体を覆い、農業の経験がない私から見ても、元の状態に戻すには長い年月が必要であることが分かりました。
津波の被害を逃れて残った花を刈り、畑の骨組みを壊していく作業は本当に胸が痛み、作業に関わった全員が悲しい気持ちになったと思いますが、依頼主の方が復旧・復興に強い意欲を持たれており、私たちの心をいつも奮い立たせてくれました。
作業をしている時に、他のボランティアの方が、「これはゼロではなくマイナスからのスタートだから頑張らないといけないんだ。」と話していましたが、まさしくその通りで、何も無い場所に畑を作るよりもはるかに大変な作業だからこそ、私たちボランティアが必要とされているのだ、ということを痛感しました。
ボランティア期間中は、大部屋で寝泊まりし、他の産別の方々と朝から晩まで行動を共にするという、貴重で得難い経験をさせていただきました。
これからも被災地で感じたことを忘れず、日々の仕事の中で復旧・復興に繋がることを続けていきたいと思います。
↑名取市のボランティアセンターには手づくりの可愛い看板がたくさんありました。
2011年6月24日
みなさん、はじめまして。労働局(営業職員委員会担当)の小島です。
この“ブログ”を楽しみに?ご覧いただいている方々は既にご承知かと思いますが、現在、生保労連では、被災地の復旧・復興に「少しでもお役に立ちたい」との思いから、連合を通じたボランティア活動に参加しています。わたしも6月3日~11日までの9日間、大隈副委員長(前半)、早川副書記長(後半)と共に宮城(仙台)に行ってきました。連合としての派遣は、第9陣目になります。(わたし自身は、ボランティア初体験です)
「班長」として・・・
活動地区は、これまでもブログで紹介のあった亘理町です。活動初日・2日目は側溝のヘドロ等を除去する作業です。
第9陣「第1班」の仲間たち
当日は土日ということもあり、個人の方を含め、多くのボランティアの方々が各地で活動していました。側溝には、津波で流された様々なものが混在しており、それらも含めて取り除く作業は、想像していたよりも重労働でした。
活動中は、基本的に班単位で作業にあたります。なぜかわたしが「班長」に任命されましたので、右も左もわからない中で、少しでも頼りになる班長をめざして奮闘しました・・・
9陣目にして初めての墓地清掃
3日目以降は、墓地に流れ着いた泥や砂利、ガレキ等の清掃作業です。多くの墓石が破損、倒壊している状況の中で、「せめてその周辺だけでも元の状態に戻そう」との思いで、計4日間の活動を行いました。
活動中、残念ながら破損してしまった墓石に手を合わせているご家族を何度か見かける機会がありました・・・。「ご先祖さまにご自身の無事を知らせている姿」なのか、それとも「被災し、他界されたご家族をお守りくださるようお願いしている姿」なのか・・・。
こうした姿を見ていると、何とも言いようのない気持ちになりましたが、一方で、こうしてお墓参りに来ることができる状況になっているということは、約3か月という時が経過する中で、生活の面でも心の面でも、少し落ち着いてきているのかもしれないとも感じた次第です。
墓地での清掃作業
仙台のみなさんのたくましさを痛感
ボランティア期間中は、毎朝8時30分頃にベースキャンプ近くの北仙台駅をバスで出発し、活動地域のボランティアセンターに向かいます。この時間帯は、通学途中の学生達や通勤途中のサラリーマンの方々、特に仙台は自転車通勤をされている方が多いのですが、みなさん颯爽と元気に活動してらっしゃいます。
また、夜の仙台はというと、これもまた明るく元気に語らい合っている姿が多く見られます。それが奥さん・旦那さんへの不満?なのか、上司の愚痴??なのかは分かりませんが・・・
たとえご自身やご家族が無事であっても、親戚や友人・知人といった方々の状況を含めると、ほぼ全ての方が深い痛みや悲しみを抱えていることは容易に想像できますが、そうした状況にあっても、明るく、力強く歩まれている姿が強く印象に残っています。
オール・ジャパンで復興を
9日間という短い期間ではありましたが、被災地の惨状を目の当たりにし、その復旧・復興に向けた活動に携わることができたことは、とても貴重な体験でした。
今回の活動では、個人宅のお手伝いをする機会はありませんでしたが、ボランティアセンターのみなさんや連合宮城の方等とお話する機会をたくさん得ることが出来ました。その中でみなさんがおっしゃられていたのが、「何とか5年間で再生する」という強い思いでした。
私自身、一人の“日本人”として、生保労連・連合を通じた諸活動への参画や、個人的に出来る事をしっかりと行い、5年後に“観光”で仙台を訪れたいと強く願っています。
<亘理町災害ボランティアセンター>
http://msv3151.c-bosai.jp/group.php?gid=10115P