2024年10月01日
みなさま、こんにちは。生保労連副委員長1年目の金田と申します。
さて、9月までは暑い日が続いていましたが、10月に入りようやく過ごしやすい気候になってきましたね。ただ、1日の寒暖の差が激しいので、体調管理には気を付けていきましょう。
私は、生保労連において、産業政策委員長として、主に産業政策課題への対応をしてます。ちなみに、産業政策課題とは、「一人ひとりの努力」や「単位組合」だけでは解決できない「国の政策・制度」に関わる課題であり、生命保険産業においては、生命保険料控除制度の拡充や郵政民営化問題などのことを指します。
このような産業政策課題の解決に向けては、国政や行政への働きかけが必要なので、日々、生命保険業界を支援してくれている国会議員方へ生保業界の実情をお伝えするため国会議事堂や議員会館に行くことがあります。
そんな中、生保労連の中央執行委員の方から、国会議員方が働く場所を見てみたいとの要望があったので、支援議員の一人である浅野哲先生の事務所に案内をお願いし、9月19日に生保労連の役員中心に総勢26名で国会見学に行ってきました。
ニュースで見かける「衆議院議場」や「委員会室」をはじめ、普段は入れない「議長控室」等も案内していただくだけでなく、その歴史も教えていただけるのでとても有意義な時間を過ごすことができました。
見学は約1時間かかりますが、見るところも多いので思ったよりも短く感じます。最後は国会議事堂の食堂で食事をするのですが、見学者はカツカレーを頼むことが多いそうです。国会議員は会議をしながら昼食をとることが多く短時間で食べられるカレーは定番メニューのため、その味を楽しみたい人が多いようです。
見学者は修学旅行中の小中学生が多いですが、大人も一定数いますので、大人の社会科見学として、体験されるのもよいかと思います。
国の政治が行なわれている場所を見て回ることは改めて政治を意識するいい機会となりましたので、生保労連としては、今後も国会見学を実施することを検討していこうと思っております。
なお、国会見学は国会議員の事務所にお願いして案内してもらうだけでなく、一般参観も可能ですので、是非国会議事堂まで足を運んでみてはいかがでしょうか。
※詳細は、下記URLをご参照下さい。
参観手続 (shugiin.go.jp)
2024年7月16日
皆さんこんにちは中央書記長の田中です。
先日、私たちの上部団体の連合で定期的に開催している「金融・保険部門連絡会」メンバーで、宮城県石巻市・女川町に事業所視察に行ってきました。石巻市や女川町は皆さんもご存じの通り、東日本大震災で大規模な被害を受けた場所の1つです。東日本大震災における当時の被災地をめぐり、当時の様子や復興に向けた取組みなどに触れながら、私たちの産業が今後こうした大規模災害に直面した時にどういった役割が果たすことができるのかを考えるために実施しました。
<震災当時の行政の取組みについて>
初日は、仙台市にある「連合・宮城」を訪れ、労働組合の役員でもあり、石巻市の復興を担当している保原氏より「東日本大震災時の行政における対応状況について」ご講演をいただきました。
災害に強いまちづくりをテーマに復興基本計画を策定・実行し、この10年間で 様々な取組みが実施されたそうです。
また、当時の石巻市を襲った津波の映像なども視聴し、地震や津波の恐ろしさを改めて知ることが出来ました。
<まち歩き-女川町にて->
次に仙台市から女川町に移動し、女川駅周辺を地元の語り部に案内していただきながら、まち歩きを行いました。
女川町の再生・復興事業では、東日本大震災と同規模の津波が起こった際に被害を最小限にするためのまちづくりが行われました。具体的には、震災前の元の地盤に盛り土を行い、土地全体を嵩上げした上で商業エリアと居住エリアに区画整理し、再開発を行ったとのことです。
さらに、町の中心部に町役場などの公共施設や公益施設を集中させて利便性を高め、また、小中学校は前回と同規模の津波が来ても浸水しない高台に建設するなど工夫がされていました。
また、震災遺構として女川交番が当時のまま残されています。建物全体は傾いており、内部も津波によって損害を受けた様子を見ることが出来ました。
<震災遺構視察‐石巻にて‐>
2日目は、石巻市にある「みやぎ東日本大震災津波伝承館・石巻市震災遺構(門脇小学校)」にて視察を行いました。
石巻市での人的被害は死者・行方不明が3,500名を超えており、宮城県の中でも大きな被害を受けました。
「みやぎ東日本大震災津波伝承館」は、東日本大震災と同じ悲しみを繰り返さないために、震災の記憶と教訓を永く後世に伝え継ぐことや県内の震災伝承施設等へ誘う玄関口の役割を果たすため建設されたものです。
施設内では、震災時の津波の映像や被災者の証言による被災状況や津波から尊い命を守るための教訓をパネルや映像を通じて東日本大震災の脅威を知ることが出来ました。
また、伝承館の近くには門脇小学校が震災遺構として残されています。
今回の視察では、本当に貴重な経験が出来ました。決して他人事ではないと改めて感じましたし、後世に引き継いでいくためにも現地に赴き、自分の目で見て肌で感じることの重要性や人から人へ伝承していく大切さを認識させられる機会となりました。
<1年間を振り返って>
最後になりますが、生保労連は8月22日に第56回定期大会を迎えます。
2023年度も各組合や組合員のみなさまのご協力のもと、様々な活動を展開することが出来ました。今年度の大きなトピックスとしては、1月に開催した第415回労使協議会にて「生保産業や営業職員の社会的使命達成に向けた労使共同宣言」を採択することが出来ました。次年度以降もこうした取組みを加速させていけるよう生保労連として取り組んでまいります。
2024年7月01日
生保労連ブログ2回目の登場になります、副書記長の松田です。よろしくお願いします。
前回(2022年10月)はアイルランド・ダブリンへの出張に関する内容を報告させていただきましたが、今回はアルゼンチン・ブエノスアイレスへの出張に関するエピソードをお伝えします。
生保労連が加盟している国際労働組合組織である「UNI(※)」は、部会毎(金融、商業、郵便・ロジスティクス、テレコム等)に大会および諸会議を開催しており、今般、UNI世界金融部会にて、「労働者のお金、労働者の未来 年金基金は労働組合のパワーツールとなるか?」というテーマのもと、年金基金に関する各国の取組みや意見交換が行われました。
(※)UNIとは・・・
◆ 世界150ヶ国の商業、流通、情報、金融等、サービス産業の900の労働組合が加盟する国際産業別労働組合組織であり、組合員は2000万人
◆ 商業、金融、テレコム、郵便関連、印刷、芸能・マスコミなど13の部会と女性、青年、専門職・監督職の3つの専門委員会を中心に地域レベル、世界レベルで活動を展開
◆ 日本における加盟団体は、UAゼンセン、自動車総連、生保労連、労済労連、全労金、損保労連、全信連、全印刷、印刷労連、大日本印刷労組、情報労連、日放労、JP労組、全国農団労
◆ 生保労連は、1998年に前身組織であるFIETに加盟し、2000年UNI結成から加盟し現在に至る
日本からは9名のメンバーで参加し、全信連(信託銀行の産業別労働組合)からは日本の年金制度全体の説明を行い、生保労連からは、私的年金や企業年金等を含めた「公私ミックス」の必要性や、労働組合としても「金融リテラシー教育」に取組むことの重要性を主張してまいりました。
また、会議だけではなく、懇親会の場を通じて、日本から参加したメンバーだけではなく、海外の方とも情報交換や親睦を図ることができ、大変有意義な出張とすることができました。
次に、地球の裏側にあるアルゼンチンについて、紹介します。
「世界には4種類の国がある。先進国と発展途上国、そして日本とアルゼンチンだ。」ノーベル経済学賞を受賞したサイモン・クズネッツが発したジョークは、1960年代までに発展途上国から先進国に成り上がった日本と、逆に滑り落ちてしまったアルゼンチンを対比するものでした。
アルゼンチンは19世紀後半から20世紀初頭まで、農牧業における比較優位を生かし、米国やヨーロッパへの大量輸出により高い経済成長率を誇りました。しかし世界大恐慌以降、政府が輸入代替戦略のもと工業促進に舵を切ったことで、投資先が分散し、農業生産及び輸出は激減することになりました。その後、一時的に好況を取り戻した時期もありましたが、基本的に保護主義に依存したことでグローバリゼーションの波に乗り切れず、現在に至るまで慢性的な高インフレと対外債務の問題に悩まされ続けています。(2024年4月のCPI上昇率は289.4%)
また、新しく就任したハビエル・ミレイ大統領は「年間インフレが140%にあるアルゼンチン経済を正常に戻すには公共事業等へのラジカルな改革が必要であり、国有報道、石油・ガス、水道・鉄道、公共事業などの民営化を強力に推進する」ことを公約に掲げており、雇用危機を危惧する労働組合とは真っ向から対立しており、市内ではデモ行進、集会等の抗議活動が日常のように行われています。
文化としては、前回行われたサッカーワールドカップでメッシ率いるアルゼンチンが悲願の優勝を勝ち取ったように、サッカーが非常に人気の国です。街のいたるところに、レプリカユニフォームが販売されており、ブエノスアイレスには「ボカ・ジュニアーズ」と「CAリーベル・プレート」という世界的ビッグクラブがあります。その他にもアルゼンチンタンゴやワインに牛肉、飲むサラダとして多くの国民に愛されているマテ茶がイメージされると思います。
会議が開催された港町の首都ブエノスアイレス自治市は、「南米のパリ」との異名を持つほどヨーロッパ風建築で埋め尽くされ、洗練された街並みが広がっています。市内には多くの美術館や劇場、公園が点在し、豊かで文化的な街であることを感じられました。市民が自らをポルテーニョ(港の住人)と称していることからも、国内の他地域と異なるブエノスアイレスの都会性が誇りにされていることを感じることができました。
ただ、街の南側は中心部と様子が大きく異なり、非常に危険な地域が広がっているため、絶対に一人で歩き回らないように厳重注意がされていました。また、外務省HPにも以下の記載があるように、危険な側面も持ち合わせている街だということを感じさせられました。
(外務省HPより一部抜粋)
「ビジャ」と呼ばれるスラム街が、高速道路の周辺や市の南側に点在しており、市の北部レティーロ駅北側には大規模なビジャが広がっています。ビジャには貧困、極貧層が密集して居住しており、各種犯罪の温床になっていることから、警察でさえも近付くことを避けようとする危険な地域です。絶対に近付かないでください。
最後に、アルゼンチンまでの道中で起きたトラブルについて、紹介したいと思います。
アルゼンチンは地球の裏側にあるため、直通便の運航がなく、アメリカ(JFK空港)を経由でのフライトです。東京(羽田空港)からJFK空港までは約14時間、JFK空港からアルゼンチンまでは約11時間、そしてトランジットの時間を含め、約30時間かかると聞いていたので、相当な移動になることは覚悟していました。
予定通り羽田空港を出発し、JFK空港に到着した後、次のフライトまでご飯を食べたりして過ごし、搭乗時間を迎えたので、アルゼンチン行きのゲートに行ったところ、大勢の人が様々な言語で空港職員に詰め寄り、現場は大パニックに陥っていました。
「どういうことだ?」と思い、フライト時間が表示されている画面を確認してみると、午後11時出発の飛行機が、翌日午前11時30分出発に変更になっていました。
嘘か本当かわかりませんが、空港職員曰く、「pilot missing(パイロットが行方不明)」とのことでした。。。我々は大人しく翌日まで待機し(結局午後3時出発)、約2日間かけてアルゼンチンに到着することができました。
コロナ禍が終わり、海外への出張や旅行をされる方も増えてくるかと思いますが、急にパイロットが行方不明になり、飛行機が離陸できないことも起こり得ますので、皆さまも余裕を持った行動を心がけていただければと思います。
2018年2月27日
こんにちは。労働局と政策局を担当している鈴木と申します。
みなさんは、労働者の祭典「メ―デー」がいつ、どこで、何を目的として始まったのかご存知ですか。ふだん何気に耳にしていたり、参加しているイベントも、そのルーツを辿ってみると、意外な事実がわかったりします。
そこで今回は、その日が近くなっている「国際女性デー(3月8日)」と「メーデー(5月1日)」を取り上げ、これらのルーツを少しだけご紹介したいと思います。
<3.8国際女性デー>
1857年にニューヨークで起きた工場火災で多くの女性が亡くなったのを受け、3月8日に女性たちによって低賃金や長時間労働に抗議する集会が開かれたのが起源です。当時の女性の置かれた状況がそうさせたのでしょうが、とても勇気のいる行動だったことは想像できます。女性の力おそるべしですね。
その後、国連において3月8日は「女性の権利と平等のための記念日」と位置づけられ、世界各国に広がりました。日本では、1923年に東京で集会が開かれたのが始まりと言われています。
国際女性デーは、賃金・労働条件の向上を表す「パン」と、女性の尊厳、人権の確保を表す「バラ」をシンボルにしています。当日、街行く人にバラを配るのも、こうした意味があるんですね。
<5.1メーデー>
1886年5月1日、アメリカのシカゴで、1日12~14時間労働が当たり前だった時代に、労働組合が8時間労働制を要求してストライキをしたのが直接の起源です。その時のスローガンは、「最初の8時間は仕事のために、次の8時間は休息のために、残りの8時間は自分たちのために」でした。
日本初のメーデー(1920年、上野公園)
日本での最初のメーデーは、それから34年後の1920年、アメリカと同様に8時間労働制などがテーマでした。開催場所はなんと上野公園(!)。シャンシャンで賑わっている上野公園が日本のメーデー発祥の地だとは意外ですよね。
昨年のメーデー(代々木公園)
日にちは、日曜日以外だと人が集まりにくいという理由で、1日ではなく日曜日の2日に開催されたそうです。現在も、連休の最中では人が集まりにくいという理由で、連合メーデーは1日ではなくゴールデン・ウィーク初日に開催されていますが、当時とはだいぶ事情や背景が違いますね。
これらのイベントにご参加される方は、こんなことを頭の片隅に置いていただくと、少し違った光景になるかもしれませんよ。
2017年11月02日
みなさん、こんにちは。特別中央執行委員の加納です。
時が経つのは早いもので、一昨年の秋に、連合の経済政策局へ派遣されてから2年が過ぎました。私は、普段、働く者の視点から国の財政や税制、産業政策などを考え、政府・政党への要請行動や国の審議会への参加などを通じて、政策・制度の実現、世論喚起に取り組んでいますが、今日は、先日(9月9日(土)~10日(日))、連合本部の運営側として参加した「2017平和行動in根室」について、紹介したいと思います。
連合では、1989年の結成以来、北方領土返還運動を6月の沖縄、8月の広島・長崎とともに4つの平和運動と位置付け、「平和行動in根室」として取り組んでいます。加えて、1992年から始まった「北方四島ビザなし交流」では訪問事業と受入事業の双方に参加し、2004年と2005年には民間初の取り組みである「北方四島ビザなし訪問 連合の船」を独自に実施しています。
北方領土問題とは、先の大戦でわが国が降伏の意図を明確に表明した後に、ソ連軍がわが国固有の領土である北方領土に進攻し、日本人島民を強制的に追い出し、現在に至るまで北方領土を不法に占拠していることに対して、わが国としてその返還を求めていることをいいます。この不法占拠に伴い、北方四島の元居住者等であっても自由に上陸できず、北方四島周辺の海域では自由に操業できない等、現在もさまざまな問題が生じています。
とても近くに島が見えます
戦後72年が経過し、当時、北方四島(択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島)に住んでいた島民は約17,000名でしたが、現在は約6,000名となり、平均年齢は82歳を超えていることや、北方領土の総面積は愛知県や千葉県の面積に相当すること、海を見ればとても近くに島が見えることなど、今回の平和行動への参加を通じて初めて知ったことも数多くありました。
以下は、2日間にわたり開催された「平和行動in根室」の主なイベントです。
【初日】
○北方四島学習会(657名が参加)
・映画上映「ジョバンニの島」※1
・4つの分科会形式「返還運動関係者セミナー」 ※2
※1 戦後間もない時期の北方領土や元島民の思いが描かれた内容の映画。是非、ご興味のある方は一度視聴されることをお薦めいたします!
http://wwws.warnerbros.co.jp/giovanni/
※2 ①パネルディスカッション(日ロ共同経済活動の展望について) ②北方四島の今を知ろう ③根室西高校 北方領土研究会からの報告 ④北方四島の自然と諸問題
【2日目】
○2017平和ノサップ集会(1072名が参加)※
北方領土問題の理解を深めるとともに、集会の締めくくりは「がんばろう三唱」で、北方領土問題の解決に向けて気持ちを一つにしました。
※後援:外務省、内閣府北方対策本部、独立行政法人北方領土問題対策協会
○ねむろ水産フェスタ2017
根室市歯舞漁業協同組合のご協力により、秋刀魚や鉄砲汁をはじめ、地元の特産品に舌づつみを打ちました。
北方領土問題について、昔、社会の授業で習いはしましたが、この問題に係わる人からの具体的な話を聞き、自分の肌で直接感じられたことは、本当に良い経験となりました。また、北方領土問題は、戦後から現在もなお継続して進行している問題であることも、改めて認識させられました。
普段の組合活動にも通じることですが、実際に足を運ぶことは重要であると、今回の平和行動への参加を通じて、何事に対しても積極的に行動していこうと思いを新たにしました。